アーティスト・イン・レジデンスという
“よくわからないもの”を受け入れてみる。
「寛容」の精神が育んだ、藤野というまちの現在地





太平洋戦争末期、疎開してきた芸術家たちが「ここに一大芸術都市をつくろう」と語り合った逸話が残る旧藤野町(現相模原市緑区)。この計画は夢物語のまま終わりましたが、1986年に神奈川県の個別計画「いきいき未来相模川プラン」の中で「藤野ふるさと芸術村構想」が打ち出されたことで、再び藤野を「芸術の町」にしていこうという機運が高まりました。1988年には「1988 森と湖からのメッセージ事業」として、国際シンポジウムや野外環境彫刻展を開催。1990年からは「藤野ふるさと芸術村メッセージ事業」となって、形や規模を変えながらも現在まで続いています。

一方で、こうした行政の事業に関係なく、大小さまざまな企画や活動が生まれていったのが旧藤野町(以下、藤野)の特徴です。その一つに「アーティスト・イン・レジデンス(AIR)」もありました。アーティスト・イン・レジデンスとは、さまざまなジャンルの芸術家が一定期間ある土地に滞在しながら制作活動やリサーチを行なうプログラムのこと。

「一般社団法人藤野エリアマネジメント」代表理事の中村賢一さんは、かつて藤野町役場職員として、アーティスト・イン・レジデンスのサポート業務に携わっていました。過去にどのようなアーティスト・イン・レジデンスがあったのか、まちにどのような影響を及ぼしていたのかを振り返っていただきました。

Profile
中村賢一(Kenichi Nakamura)
旧藤野町生まれ。1970年より藤野町役場に勤め、福祉やまちづくり分野を担当。2004年、市町村合併を契機に退職。2010年ふじのアートヴィレッジ設立、2013年藤野里山交流協議会を設立。2015年、ふじのアートヴィレッジを母体として、一般社団法人藤野エリアマネジメントを設立、代表理事を務める。


なぜ藤野にオーストリアのレジデンスができたのか


一般社団法人藤野エリアマネジメント代表理事/元藤野町役場職員 中村賢一さん

藤野におけるアーティスト・イン・レジデンスでもっとも長く続いたのが、1992年12月に篠原地区にオープンした「オーストリア藤野芸術の家」です。キーマンとなったのが当時、藤野の古民家で暮らしていたオーストリア出身の彫刻家、アロイズ・ラングさんでした。

彼はすごく面白い男でね。ある日、役場に来て怒り出すんだよ。「なんで地元にいるアーティストを大事にしないんだ!」って。彼は最初の野外彫刻展にも参加していたんだけど、当時は広告代理店が入っていて、ニルス・ウドにジム・ドランに崔在銀といった著名な芸術家ばかりを二十数人も集めていた。地元在住のアーティストの参加はすごく少なくて、それに怒ったんだね。
情熱的なアロイズ・ラングさんは、藤野に二つのドラマをつくったと言います。一つは1988年の野外環境彫刻展のセレモニーに旧知の仲だった岡本太郎さんを招いたこと。前日に唐突に連絡を入れると、岡本太郎さんはアロイズの頼みならと予定をすべてキャンセルして駆けつけてくれたそうです。これが話題となってメディアにも取り上げられ、来場者数が増加。その後も数年、県が継続的に莫大な予算をつけてくれたのは、この影響もあったのではないかと中村さんは考えています。

アロイズ・ラングさんが民宿「秋川屋」の下の河川敷に制作した「未来都市の幻影」という作品のイメージ図

藤野におけるアーティスト・イン・レジデンスでもっとも長く続いたのが、1992年12月に篠原地区にオープンした「オーストリア藤野芸術の家」です。キーマンとなったのが当時、藤野の古民家で暮らしてそしてもう一つが「オーストリア藤野芸術の家」の開設でしたそしてもう一つが「オーストリア藤そしてもう一つが「オーストリア藤野芸術の家」の開設でした。

オーストリア政府は、ロンドンやパリ、ニューヨーク、シカゴなど、世界中に拠点をつくって、国費でアーティストの若者を国外へ送り出すプロジェクトをやっていたんだ。その8番目の拠点として東京が選ばれた。ところがアロイズは大使館に日参して「東京じゃダメだ!」と、たった一人で言い続けるんだ。そしてある日突然、大使をお忍びで藤野まで連れて来たんだよ。



民家で暮らしていた一国の大使が人口1万数千人の小さなまちを訪問することなど当時は考えられず、役場は大騒ぎになったと言います。

本当に来たから驚いたよ。アロイズが政府に顔が利くぐらい立派な人だったかというとそういうわけではない。ただ、オーストリアという国は上下の差がないっていうのかな。人と人の関係性がすごくフラットだったんだ。



民家で暮らしていたアロイズ・ラングさんから相談を受けた役場が紹介したのが、篠原地区の大きな古民家。現在は小規模多機能型居宅介護事業所「すずかけの家」になっている建物です。大使はその風情ある日本家屋の佇まいと里山の風景が気に入り、その場で借りることを決めて帰っていきました。


10年間続いたAIRが地域の文化度を高めた

オーストリア藤野芸術の家だった古民家(2022年撮影)。現在は「すずかけの家(宅老所)」
民家で暮らしていた一国のプロジェクトの拠点に選ばれる。これは町にとって大きな出来事でした。交渉の末、家賃や光熱費はオーストリア政府が支払うものの、建物の修繕や水洗トイレへの変更など、いくつかの改修工事は町の負担で行なうことになりました。よくよく考えてみれば、レジデンスの誘致自体はアロイズ・ラングさんが個人的にオーストリア政府に働きかけたものであり、町が主導したわけではありません。にも関わらず、相談を受けた町役場が空き家の斡旋や改修を請け負い、手厚くサポートしたのはなぜなのでしょうか。


アロイズがいきなり役場にきて、オーストリア政府のこういう事業があるから協力してくれって言うわけじゃん。町としては、何もやらなくてもおかしくないよね。でも町長が「じゃあやってこい」って言うんだ(笑)。絶対にダメだって言わないんだよ。藤野はね、そこが柔らかいところなの。


民家で暮らしていたこうして1992年12月、オーストリアの自国アーティスト向けレジデンス事業「オーストリア藤野芸術の家」が開設されました。3ヶ月から半年をサイクルに、常時2~3組のオーストリアのアーティストが滞在。個展や音楽祭が開催されることもあり、地域の中で小さな国際交流が始まりました。1996年には、オーストリア成立1000年を記念した「オーストリア1000年祭 in FUJINO」も開催。アロイズ・ラングさんはじめ、地域の在住芸術家らが実行委員となって、町も一部費用を助成しました。


オーストリア芸術の家がオープンした際に、篠原地区在住の彫刻家・植草永生氏らによって開催された「篠原造形展」の様子。これが現在も続く大規模イベント「ぐるっとお散歩篠原展」の前身イベントとなった(Photo by Gaku Miyake)

民家で暮らしてい 中村さんには、印象に残っている展覧会があります。


コンラッド・ラウターとバーバラ・ホエラーはフィアンセ同士で来ていて、面白い展示をやったんだ。寝室に、毎朝天井から何十っていうカメムシが落ちてくる。彼らは、そのお墓をつくるのよ。お墓っていっても、ちり紙で包むだけ。それを部屋いっぱいに並べて、作品だっていって展覧会をやったの。芸術なんかよくわからない俺からしたらさ、あんなのただの遊びだよ。でも、それをわざわざ大使まで見に来るんだ(笑)。

コンラッド・ラウターとバーバラ・ホエラーによるエキシビジョン「かめ虫」のフライヤー
民家で暮らしてい こうした「場」ができたことで、よくわからないアートに、よくわからないなりに触れてしまう。それがじわじわと藤野で暮らす人たちの感性を養っていった側面があったのかもしれません。一方で「地域には、異文化に対する警戒感がなかったわけではない」とも言います。


オーストリア藤野芸術の家はやっぱり町にとっては魅力的だったよ。だけど、展覧会をやっても見にくる人は限られていたし、地域全体として歓迎ムードだったかというとなんとも言えないところはある。そのせいかはわからないけど、ちょうど市町村合併の議論が始まった2003年ごろ、オーストリア藤野芸術の家は終わるんだ。終わる理由として言われたのは、駅から遠かったこと。高尾駅から先まで行くのが大変だということ。さらに、冬場の寒さ。この三つを理由に東京都荒川区に移転しちゃうんだ。

俺はたぶん、いろいろ面倒を見てくれたすぐ隣のおばあちゃんがいなくなったことも大きかったんじゃないかなと思う。そのおばあちゃんは英語が話せたんだ。だから通訳してくれたり、おやつを持って行ったり、アーティストの面倒をよくみてくれた。最後はオーストリアにも招待されていたよ。そういうある種のキーパーソンがいないと、こういう取り組みは続かないんだ。

民家で暮らしてい 現在もオーストリアのレジデンスは荒川区にあるそうです。中村さんは「町が公的サービスをもう少し幅広く考えてやっていれば今もまだ続いていたかもしれないと思うことはある」と話します。

だけど、なくなることも含めて是としないと。それが藤野のキーワードでもある「寛容」につながるんだ。少なくともオーストリア藤野芸術の家は10年続いて、100人近いアーティストが来て、交流した。これは十分すごいことだよ。レジデンスがきっかけで、地域の文化度が高まっていったところはあると思う。


小さな国際交流が町と町を結びつける

民家で暮らしてい そして同時期、もう一つ動いていたアーティスト・イン・レジデンスが、日本のレジデンス事業の先駆け的存在「遊工房」による「藤野別館・藤野分館」です。

「雨」フェリット・オズシェン(photo by Kazuhiko Hakamada)
民家で暮らしてい 1996年に国際交流基金の招聘芸術家として、トルコから彫刻家のフェリット・オズシェンさんを受け入れた遊工房。フェリットさんの作品制作には広いスペースが必要だったことから、相談を受けた町は、これに全面的に協力しました。


最初は、遊工房の村田達彦さんが神奈川県に相談したんじゃないのかな。その後、県の職員から藤野町役場に連絡が来た。そこで、佐野川地区の空き家を制作拠点にしてもらったんだ。今も芸術の道にある「雨」はフェリットさんの作品だよ。

その縁で、当時の町長と総務課長、そして中村さんは、トルコのデイルメンデレ町を親善訪問し、最終的には実現しなかったものの、姉妹都市締結するという話まで出たのだそう。一人のアーティストの受け入れが、国を越え、町と町を結びつけるまでに広がったのです。

ハードよりもソフト(人)を大切にするまちへ


民家で暮らしていこうした経験を重ねる中で、藤野は独特の「軸」を獲得していきました。

俺は芸術っていう言葉はあまり好きじゃないんだけど、役場の職員として関わっているうちに少しずつわかってきたというか。感覚として、よそのまちと藤野の違いはよくわかった。例えばまちづくりは、普通ならハードが中心になるけど、藤野はハードよりソフト(人)を大切にする。それから外国人もアーティストも、あるいは障がい者やLGBTQの人たちも、ほかの似たようなまちよりもすんなり受け入れられているんじゃないかなと思う。たぶん、昔からいろいろな人が出入りしているから免疫があるんだよね。全員がポジティブに受け止めるとまではいかないかもしれないけど、理解はできている、というのかな。

民家で暮らしてい そして、隠れた功労者は藤野町長を6期務めた倉田知昭さんだったと、中村さん。

倉田町長は常に「善きにはからえ」の人だったの。つまり、すごく寛容だった。みぎれいで、お金に関するずるさもない。政治家としての力強さみたいなものはないんだけど、とにかくすごく善人なのよ。だから人気があって、町長を6期やった。6期もやると選挙に強いでしょう。選挙に強いと大衆迎合しなくていい。だから県に突然「藤野町は芸術でいきなさい」と言われたときも、反抗せず「うん」と返したんだ。議会は「また町長が県に騙されて、いくらにもならない事業をやらされる」と責めた。そこで「まぁそう言わずに、若い連中が頑張ってるし、神奈川県も一生懸命やってるから一緒にやってくれよ」と議員たちを説得したんだ。これは、誰にでもできることじゃないよ。

民家で暮らしてい 寛容であること。人を大切にすること。ゆるく構え、楽観的に受け入れていくこと。こうした姿勢で芸術村構想を推し進めていくうちに、藤野には多種多様な人々が集い、独自のカルチャーが形成されていきました。

1986年に、青天の霹靂で「藤野ふるさと芸術村構想」がやってきた。県からは勝手に「森と湖と創造の拠点」なんて言われてね。これが暗に何を言ってるかというと、藤野は水源のまちだから工業団地の誘致はできません、住宅団地をつくることも許しません、ということなんだよ。町は仕方なく、県の思惑に乗る形で、芸術家も外国人もヒッピーも、ある種の新しい人たちをどんどん誘致した。でも結果的にその人たちが藤野というまちを変えたことが、今に続く最大の財産になっている。つまり、ハードは一向に整備されなかったけど、ソフトの重要性をみんなが理解したんだ。まちを変えたのは、芸術をきっかけに集まってきたよそ者の存在だったんだよ。


オーストリア藤野芸術の家に滞在していたアーティスト、アンナ・シュタングルさんの版画作品。今も中村さん宅のリビングに飾ってある

民家で暮らしてい 芸術家の移住、シュタイナー学園やパーマカルチャーセンタージャパンの設立、アーティスト・イン・レジデンスや各種アートイベントの開催、トランジションタウン運動をはじめとする市民活動に子育ての取り組み。近年は小さなお店がいくつかオープンするなど、ローカルビジネスも活発になりつつあります。


藤野のいろいろな噂を聞いて、期待して藤野駅を降りるでしょう。でも藤野はハードが何もないから、みんなつまらないって帰っていくの。つまり、観光に来ても面白いまちじゃないんだよね。そういう意味では、うんと発展したかったら、きっとやり方は違ったと思う。

今の藤野は、訪れて面白いんじゃなくて、住んで良かったって暮らしている人たちが思えるまちなんじゃないかな。アートだけじゃなく、医療や教育、福祉に文化も充実している。それに関連するしないも含めて、幅広い350人のアーティスト集団がいる。多様性あるコミュニティと市民活動が藤野の味わいをより深くしてきたんだよ。これは、誰かスーパーマンがつくったんじゃない。幅広い属性の一人ひとりが時間をかけて新しい文化をつくってきたんだ。



民家で暮らしていアーティストもヒッピーも外国人も障がい者もLGBTQの人たちも。多様な人々を早くから受け入れてきたことが、藤野という地域で暮らす一人ひとりの寛容さを養い、レジリエンスを高めてきました。

アーティスト・イン・レジデンスもまた、その中の一つ。まったく未知のものを受け入れ、わからないなりにともに過ごしてきたことで、地域の人々の心の裾野を広げてきたのではないでしょうか。


家で暮らしてい
取材・文:平川友紀


、アロイズ・ラングさんでした。